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0線の映画地帯 鳴海昌平の映画評

『妻という名の女たち』

筧正典『妻という名の女たち』、

司葉子は夫の小泉博が浮気していることなどまるで知らなかった。

ある時、平凡な司の家庭に、左幸子がやって来て、小泉から株を貰う話になっていると言い出す。

実は小泉は、バーのマダム左と伊豆へ行って不倫を始めてから、女房の司とは別れると左に言ってきた。

その言葉を信じて左は小泉と付き合ってきた。

小泉の浮気にショックを受けた司は、一旦は家出したものの、結局実家には帰らず、友達の団令子に今自分から別れたら損だと説得されてまた家に帰るが、そこには小泉と左がいた。

急な司の帰宅に焦った小泉は、左を帰してから、あの女とは別れると約束する。

しかし、小泉は相変わらず左のところに泊まり一週間も帰ってこなかったが、それでも司は小泉の帰宅が嬉しかった。

小泉はその後も外泊し、ほとんど家に帰って来なくなるが、その頃、小泉の父の藤原釜足が死んだのを機に、会社の人間に不倫がバレ、素行が悪いと会社にいられないし出世もないと言われて、小泉は一時的に司のもとに戻るが。




浮気夫とそれに対峙し苦しむ妻を描いた作品。

今なら司葉子の立場の妻は、とっとと離婚し、慰謝料をガッポリ取ろうとするだろうが、時代が時代ということもあり(昭和38年)、司は絶対離婚しないと言い張り続ける。

それは浮気をどれだけされても小泉博のことを愛しているからだそうで、左幸子の方もお水の女ではあるが、別に小泉を騙しているわけではなく、寧ろ妻と別れると言いながら中々グズグズと別れない小泉の犠牲になっているような立場で、要するに三角関係の元である小泉博が一番悪いのである。

しかし、それにしてもこの小泉博は最強である。

何故なら、これだけ司も左も苦しめ、のらくらグズグズ右往左往する、かなりクズな不倫夫のくせに、自分が悪いとは本当は一切思っておらず、寧ろ厄介な事態に巻き込まれた可愛そうな自分みたいな善人顔を最後まで貫徹しているのだ。

どう見ても、お前のやってることが諸悪の根源だろということばかり繰り返していながら、この小泉博は、「ゴジラ」シリーズや「クイズグランプリ」の司会や「サザエさん」シリーズのマスオ役の時と何ら変わらぬ善人顔の善人芝居でこのクズ役をやっているのである。

要するに、どんな役をやっても同じ芝居しかできない大根とも言えるのだが(苦笑)しかし、このクズな不倫夫を毎度のワンパターンの善人芝居でやり通す小泉博を見ていると、リアルな女誑しの不倫夫というのは、逆に本当はこういうサイコパスじみた奴なんじゃないかと思えてくるのである。

だからこの小泉の不気味な善人顔にリアリティすら感じられるようになってくるから不思議だ。

だって小泉は結局司も左もどっちも騙している上に、不倫が会社にバレると出世の妨げになる打算から、会社関係の結婚式に司を同席させ、左とは別れるという嘘をつくのである。

こんなサイコパスじみたクズ野郎、普通なら女の方からすぐに愛想をつかしそうなものだが、しかし小泉は自分が全く悪いとは思っていないサイコパスだから、結局自分に嘘をついていないのである。

だからか、司も左も小泉を信じてしまうという歪な構図が、意外にも逆説的なリアリティを感じさせるのである。

現実に存在するクズな女誑しは、案外こういう終始善人顔したサイコパスではないのか?と思えてくるので。

最後はさすがに小泉が左にも妻の司にも愛想をつかされ、吹っ切れた司が爽やかな笑顔をやっと浮かべて映画は終わる。

しかし小泉は最後まで子煩悩な父親のような善人顔を絶対やめない徹底ぶりである。

これは小泉博が何を演じてもワンパターンな善人芝居しか出来ないだけなのかもしれないが、逆にそのことがクズな女誑しのサイコパスな善人顔のリアルさを生々しく感じさせてくれて出色だったりする。

映画自体、成瀬巳喜男映画のような内容だが、筧監督はテンポよく三角関係のゴダゴタ展開を簡潔に描き出しているのでダレずに見れて中々面白い。

児玉清が団令子の尻に敷かれているくせに、司に言い寄る軽い夫役に意外と似合っているのも悪くない。

いずれにしても、小泉博の何を演じても善人顔のワンパターン芝居の場違いな恐ろしさが、歪んだ形で生々しく伝わってくる、不思議な魅力がある秀作な一篇。 2019/12/07(土) 01:50:42 東宝 トラックバック:0 コメント(-)

『喜劇 各駅停車』

井上和男『喜劇 各駅停車』、

森繁久弥はナポレオンを尊敬し、"ナポ源"と呼ばれている、55歳の引退間近のベテラン機関士だった。

助士の三木のり平は、岡田茉莉子がやっているおでん屋で森繁と喧嘩する仲の悪さだったが、ある日、機関車の番組変更による交番表に森繁と三木の名前が並ぶ。

実は助役の山茶花究が、三木にベテランの森繁に退職を説得してほしいがための人事だった。

その夜、森繁引退後に機関士を引き継ぐため転勤してきた南利明と、岡田のおでん屋に行った三木は、岡田から、森繁が戦時中、助士をしていた岡田の夫が敵の艦載機に撃たれて死んだ後、子供を抱えて途方に暮れる岡田を励まし、商売が出来るよう援助してくれた恩がある話を聞く。

だが、三木は急に胃けいれんを起し、病院にかつぎ込まれるが、翌日、森繁と同じ機関車に乗って助士を務めながらも、腹痛を我慢して貨車から離れなかった責任感の強さを森繁から褒められる。

また三木も、頑固だが人情がある森繁が好きになっていく。





国鉄職員をしながら作家をやっていた清水寥人の原作「機関士ナポレオンの退職」を映画化した喜劇映画。

しかし原作がある映画だからか、単なる森繁の喜劇映画という感じではない。

ナポ源と呼ばれた頑固な機関士の一代記のような、かなりちゃんとしたヒューマンドラマになっているし、なんと言っても松山善三の脚本がとても良い。

と同時に、当時の蒸気機関車が全編に渡り登場し、その走る様子を見事な移動撮影で長々とカメラマン岡崎宏三が撮ったシーンの美しさは筆舌に尽くしがたい素晴らしさである。

そこにはヴェンダース映画のようなモーションピクチャーの魅力がまずあり、同時に鉄ちゃんじゃなくても感動するような蒸気機関車の美しさが充満しているのである。

三木のり平は気がある女性(看護婦)に夢中になりながら、いつも岡田茉莉子のおでん屋でタコばかり食べながら飲んでいるのだが、三木の方が年上なのに、岡田のことをいつも「おばさん」と呼んでいたりするのが変ではある。

しかし岡田は世話になった森繁に気があり、それを森繁の妻・森光子が鷹揚に認識していたりする。

だんだん森繁と三木が仲良くなっていく様を喜劇らしくコミカルに描きながらも、森繁や三木、岡田を人物的に掘り下げていく描写がとても秀逸である。

まず、森繁がいかに機関士であることに誇りを持ち、仕事をプロとしてこなしてきたかがちゃんと描かれている。

大雨の日に運転を代わってやれず、死なせてしまった佐原健二の機関士への哀悼の念すら十分に伝わってくる。

そして退職を助役の山茶花究に勧められながらも、あくまで現役であることに意地を張り続けたのに、目が悪くなって病院へ行き遅れた森繁の代りに南利明が機関車に乗ろうとするところをひきずり降ろして列車を発車させた森繁が、そこで自らの引き際を悟るシーンにはいじましいものがある。

また、いよいよ引退となった時、機関車が車庫に入ってからも一人長々と点検作業を行う森繁の姿に、まさにリアルな機関士のプロフェッショナルな矜持と哀愁が深く深く感じられ、この場面はかなり感動的なシーンになっている。

森繁が引退の挨拶に来た時、それまで邪魔者扱いするように森繁に引退を勧めていた山茶花究が、深々と何度も頭を下げて、森繁の長年の功労に最大のリスペクトを込めて感謝する場面には、悪役的にも見えた山茶花の人間性が一瞬にして垣間見え、この場面も素晴らしい。

岡田茉莉子も単なるコミカルなおでん屋のおばさん役ではなく、夫を亡くしてから、森繁に支えられて生きてきた生身の女であることがちゃんと描かれている。

三木のり平はコメディリリーフ的要素が強く、惚れている女性にデレデレしたり、腹を下してトイレに駆け込む場面とかが多いが、それでも森繁や岡田との信頼関係の中、ちゃんと人物像が掘り下げられて素描されている。

終盤、憧れの女性から手紙の返事を貰うも、彼女が恋人を連れてきてフラれ、失恋から飲んだくれて鉄道自殺しようと線路に寝る三木と、機関士を辞める寂しさから酔っ払って線路を歩いていた森繁がぶつかる場面からラストまでは、いかにも東宝喜劇映画に戻った描写で終わっていくが、しかしそれもプログラムピクチャーの喜劇映画である要件をきちんと満たした描写で幕を引いている姿勢に見える。

単なる森繁の喜劇映画ではなく、人物をきちんと掘り下げた感動的なヒューマンドラマになっているところが実に素晴らしく、それでいて最後はプログラムピクチャーらしくきっちり締められている、井上和男の代表作の一つと言える、意外なほどに得難い名作である一篇。

2019/09/07(土) 03:52:45 東宝 トラックバック:0 コメント(-)

『無宿(やどなし)』




斎藤耕一『無宿(やどなし)』再見、

昭和十二年の夏、刑務所から着流し姿の高倉健と、白い麻の背広に力ンカン帽を被った勝新太郎が出所した。

勝新は情婦がやっているドサ廻りの芝居小屋に戻り、高倉は兄貴分の姐さんを訪ねて女郎屋へ行くが、既に姐さんは自殺していた。

そこに居た女郎の梶芽衣子は、高倉に、自分も同じ末路を辿るのは嫌だからと、足抜けを頼む。

たまたま遊びに来ていた勝新のフォローもあって、高倉は梶を足抜きさせるが、逃げる途中、人混みで梶は高倉を見失い、梶はまた再会した勝新と旅する。

その時勝新は、梶から、高倉が元潜水夫だった話を聞き、高倉を自分の計画に巻き込もうと決める。

勝新は、兄貴分の仇の安藤昇を狙っている高倉を捜すが。




ロベール・アンリコの『冒険者たち』の日本版というコンセプトで作られた、健さん、勝新、梶芽衣子の三大任侠スターを主役にした映画。

この3人を主役に揃えて『冒険者たち』をやるという企画は一見豪華で悪くない気もするが、しかしもう一つパッとしない出来で、昔観た時もちょっとガッカリした覚えがある。

ただ、ガッカリしたと言っても極端に出来が悪いわけではない。

別に健さんはクールに決まっているし、勝新もコミカルに好演、梶芽衣子などは日活の太田雅子時代以来、久々に弱々しいというか弱さを抱えた健気な女の役を演じており、これが中々良かったりもするのだ。

まあ要するに、健さんや勝新や梶芽衣子は、それぞれの主演作で、最後の殴り込みやら居合斬りが派手に決まることでカタルシスが得られる映画を成立させてきたわけだから、それが一切なく、いかにも『冒険者たち』的な悲しい青春映画風末路をあっさり迎えて終わってしまうというのが、3人に全く似合わないというか、物足りなさを感じさせるということである。

つまりこの3人で『冒険者たち』をやるというコンセプト自体にハナから少し無理があったような気がするのだ。

やはり『冒険者たち』の日本版という点では、西村潔監督の佳作『黄金のパートナー』の方がスッキリ決まった出来だと思う。

勝新が山陰沖に沈んでいるバルチック艦隊の軍用金引き上げに執着し、兄貴分の仇討ちに忙しくて協力してくれない健さんを諦めて、梶と共に金を引き上げようとする描写が妙に泥臭いところは、時代的なリアリティを考慮しすぎてか妙にモタつくが、全体的にはダレることもなく、スタスタお話が展開していくので、そうつまらなくもない。

だがせっかく健さんお得意の殴り込みやら仇討ちシーンが途中あるのに、もう一つそういう場面に迫力がないのがよくない。

敵役に安藤昇まで配しているのに、その辺りはイマイチである。

ラストの健さん、勝新の殺され方も、あまりにもあっさりしすぎていて、単なるチンピラが虫けらのように撃たれて終わりでは、映画のエンディングとして弱すぎる。

その辺りも変にリアリティを追求してそうなったのかもしれないが、そんなリアリティを追求したいならキャスティングにもいかにもひ弱なチンピラが似合う役者を使うべきであり、何も健さん、勝新を主役に据えてやるようなことではないだろう。

旅情に満ちた映像は確かに悪くないし、これは主役の3人によく似合っているのだが、随所にチグハグなところが見受けられるが故に中途半端な映画になってしまった感がある。

そんな惜しい一篇。 2019/07/30(火) 00:06:16 東宝 トラックバック:0 コメント(-)

『祈りの幕が下りる時』




福澤克雄『祈りの幕が下りる時』再見、

東京都葛飾区のアパートで、滋賀に住む女性の絞殺死体が見つかる。

そして、アパートの住人も消えていた。

住人と被害者の接点は不明。

滋賀県に住む被害者が、東京で殺された理由も不明だった。

溝端淳平ら警視庁捜査一課の刑事たちの捜査は難航するが、加賀恭一郎=阿部寛は捜査しながら、被害者が中学の同級生で、演出家の松嶋菜々子に逢いに上京したことを知る。

その頃、溝端は、近くで見つかった焼死体と事件を関連させ、遺品の中に、日本橋を囲む12の橋の名が書かれていることを知る。

阿部はそれを知って動揺するが、それは、孤独死した阿部の母・伊藤蘭に繋がるものだった。




東野圭吾による加賀恭一郎シリーズの原作を、「半沢直樹」「陸王」などのヒットドラマの監督、福澤克雄が映画化したミステリ映画。

連続ドラマ「新参者」の完結編的作品。

人気作家の人気シリーズの映画化で、おまけに人気ドラマの完結編的映画とくれば、まあ客が入るのは必然的なことであり、それはまだわかる。

しかし、こんな映画が何で高評価なのかは、全く理解に苦しむ。

そりゃまあ、可哀想な親子が出てきて、悲惨な話が語られて、家族の愛だの描けば観客が感動するなんて反応は、別に普通の反応であり、そういう反応をする観客はだいたい一定数はいる。

それにしたって、こんな体たらくの映画なんぞを評価する気には全くなれない。

別にこちらは監督の福澤克雄の、そのドラマ作品のファンだと言ってもいい。

だが、駄作とまでは言わないが、はっきり言って安い安い田舎芝居映画である。

役者の演技力を評価する声もあるが、どう見ても田舎芝居である。

それも肝心の小日向文世と松嶋菜々子がである。

この二人が役者として下手くそだとは全く思わないし、寧ろ二人とも名優だと思うが、どう見てもミスキャストだと思う。

だいたい何で、少女時代の桜田ひよりから思春期の飯豊まりえに変わるまではまあわかるにしても、それが大人になると松嶋菜々子になってしまうのか?(苦笑)

この演者のキャスティング変換の流れの不自然さが、映画を圧倒的に白々しくさせている。

正直言うと、桜田ひよりのいかにも健気な被害者的な娘芝居も嫌いなのだが、まあ一応役には合っている芝居なので、それは大目に見るが、少なくとも松嶋が、芝居云々の前に、役に合っているとはとても思えない。

だから、父・小日向と娘・桜田-飯豊-松嶋の、まるで「砂の器」を劣化させて安く安くしたような過去の描写も白々しくて鼻白むばかりである。

そもそも小日向が自己破産宣告していれば済んだ話を、「砂の器」の劣化バージョンとして引っ張り回して語っている時点で、ハナから白々しい。

東野圭吾作品の映画は、安いお涙話に奉仕するためのご都合主義的なミステリ映画が多い。

ミステリの謎解きの醍醐味など、「砂の器」の劣化バージョンみたいな構成なので、ほとんどない。(「砂の器」がダメだと言っているのではない。「砂の器」を安っぽく真似すると、途轍もなく劣化するということである。逆に「砂の器」を舐めるなと言いたい)

「ガリレオ」も、TVシリーズは面白かったのに、映画化されると、「容疑者Xの献身」も「真夏の方程式」も二作ともうんざりさせられたが、それも安いお涙話に奉仕するためにご都合主義的なミステリ映画になってしまっていたからだ。

しかしTVドラマと違って、金払って観に来てもらう映画の場合、ミステリ的な醍醐味だけでは客が呼べないのかもしれない。

だからお涙話を過度に前面に出し、TVシリーズのファンを見込み顧客として取り込むばかりの商法の映画になってしまうのかもしれない。

だが、それで客が入るのは作戦成功でいいかもしれないが、そんな映画は、やはりこのように不自然で白々しい映画になるしかないだろう。

それでも、山崎努の、阿部寛とは確執と距離感がある父親役は中々良かったし、主役の阿部寛や溝端淳平なども、さすがに適役だと思う。

伊藤蘭の母と阿部寛の挿話もなんとかカタがついているから、加賀恭一郎シリーズの完結編らしくはなっている。

一応、まとまっているので駄作とまでは思わないのだが、やはり東野圭吾ミステリ映画特有の不自然さ、白々しさはこの作品にも顕著に感じられ、それにまたしてもうんざりさせられる一篇。 2019/07/02(火) 12:45:17 東宝 トラックバック:0 コメント(-)

『子連れ狼 死に風に向かう乳母車』

三隅研次『子連れ狼 死に風に向かう乳母車』再見、

子連れ狼こと元公儀介錯人・拝一刀=若山富三郎と、その子・大五郎は、旅の途中、渡り徒士の加藤剛に立会いを求められるが、加藤を真の武士と見た若山は、対決前に「分け」とし、その場を去る。

その後、若山一刀親子は、女衒の名和宏を襲いかかられたはずみで殺してしまった少女を匿うが、少女は、浜木綿子の一家に女郎として売られていた。

少女の持つ位牌を見た若山一刀は、引渡しを求める浜の申し出を断り、その代償として、少女の代わりに、女郎の責めである水責めと”ぶりぶり”にかけられる。

少女は解放されるが、若山一刀のあまりの強さと根性に敬服した浜は、父・浜村純に引き合わせ、浜の双子の姉を殺した天領代官・山形勲を殺すよう、若山一刀に刺客を依頼する。





小池一夫、小島剛夕の原作漫画を、勝プロダクションが製作し映画化した、若山富三郎=拝一刀主演の映画版シリーズの第3作。

脚本も小池一夫が担当している。

貫禄、殺気、威厳、強さの全てを見た目で完全に体現している若山富三郎の強烈な存在感は、冥府魔道に怯まず突進していく拝一刀にはさすがに似合いまくる。

個人的には最高、最強のハマリ役の拝一刀だと思う。

そもそも隙のない緊密な殺陣シーンを演出する三隅研次の時代劇に、マカロニウエスタンのように血が飛び、腕が飛び、若山一刀が宙を舞う場面などなどが加わり、あまりにも荒唐無稽ではあるが、緊迫感と臨場感と生々しい迫力がない交ぜになった面白さとなっている。

冒頭、渡り徒士に落ちぶれているが善玉っぽい加藤剛が、仲間の質の悪い渡り徒士たちが旅の母娘をレイプしようとして、お付きの男に追い回されると、仲間を叱責するのかと思いきや、加藤はいきなり男を叩っ斬り、何故か母娘まで叩っ斬ってしまい、質の悪い渡り徒士たちより加藤剛の方がヤバい奴であることがわかる。

しかし加藤は別にサイコパスな殺人剣士なのではなく、真の武士を追求している男だそうで、若山一刀にまで”真の武士”のお墨付きを貰うのだが、真の武士が罪もない旅の男や母娘を無慈悲に殺すのかよ(苦笑)とは思う。

その後は、若山一刀が女衒を殺した女を庇って、浜木綿子一派に水責めと、縛られてからグルグル回されて棒で叩かれまくる”ぶりぶり”を代行し、呻き声すら上げない根性を浜木綿子一派に怖れられるのだが、その”ぶりぶり”をやってる時のぶりぶりぶりぶり歌いまくる掛け声が中々可笑しい。

若山一刀は、浜の頼みで双子の姉の仇の山形勲を殺すよう刺客依頼を受け、そこからは山形との攻防戦となるが、山形の用心棒の草野大悟のガンマンが、川で溺れる大五郎を助けようとして拳銃を沖に置いてきて、それが大五郎の芝居とわかった直後に若山一刀に斬られるのだが、これはまあ父子の連携プレイと言えば聞こえはいいが、随分卑怯な手ではある。

悪役草野の慈悲の心を、小さな息子に踏みにじらせて叩き斬るというのは、拝一刀らしいと言えばらしいが、ほとんど卑劣な悪役まんまの作戦である。(苦笑)

もう一人の用心棒、和崎俊哉を若山一刀が宙を舞って、和崎の脳天に刀を落とす殺し方などは、「必殺」シリーズを超えている秀逸さである。

それにしても、ラストの地蔵ヶ原での、弓や鉄砲の部隊から、戦並みの数の兵を率いる山形勲軍団VS若山一刀親子2名の対決となるクライマックスはあまりにも圧巻である。

山形軍団が弓をどんだけ撃とうが乳母車がブロックし、鉄砲隊が一斉射撃をすれば、若山一刀は乳母車内蔵のマシンガンで鉄砲隊を蜂の巣に。

迫り来る兵には手榴弾を投げまくり、数が減った兵を刀と薙刀で叩き斬り、臨機応変に宙を舞ってはどんどん斬り殺し、ついには山形勲一人に。

しかし馬に乗って銃を撃ちまくる完全な西部劇ガンマンスタイルの山形に、若山一刀はなんと二丁拳銃で山形を射殺し、山形勲軍団を全滅させてしまうのだから恐れ入る。

ここまでバカを超えた荒唐無稽さだと、笑ってる暇もなく、ひたすら感動を覚えるしかない。(特に劇場の大スクリーンで見ると)

こうした無茶苦茶に荒唐無稽すぎる描写を、今日一番受け継いでいるのは、やはりロバート・ロドリゲスの「マチェーテ」シリーズだろう。

三池崇史の「スキヤキウエスタン・ジャンゴ」は好きな映画ではあるが、バカを通り越した荒唐無稽の迫力という点では、この1972年製作のプログラムピクチャーにまだまだ負けていたなと思う。

その上で最後は、真の武士道を全うしようとする加藤剛と若山一刀の再度の立ち会いで終わり、中々抒情溢れる終わり方をするのである。

それも、介錯した若山一刀に首を撥ねられた加藤の、その斬られて転がる首の一人称主観(と言っても、もう首だけだから死んでるが)ショットを挿入するなどという、最後の最後まで奇天烈なことをやっているのに、それでもラストは抒情に満ちているのである。

これは全編に渡って、三隅研次の山々や川や竹林、草原地帯や岩場などなどの大自然に向けられた鋭いショットに内在する抒情性ゆえではないかと思う。

今なら、まるで北野武と三池崇史が一緒に撮ったような映画に見える。

バカを通り越した荒唐無稽時代劇ではあるが、そのことに映画的感動すらある、素晴らしき一篇。

2018/05/29(火) 00:06:52 東宝 トラックバック:0 コメント(-)
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